RubyhirobaでのLTの謝罪と、表現の自由と不快感と社会性について

ちょうど、この一つ前の記事について書いた事を余りにも正直にLTで話してしまった事についてです。

Rubykaigi本編でのジェンダー発言については、私は聞いておらず良く分かりませんので、そちらの話はしません。

私の話は、非常に幼稚で多くの人に不快感を与えたことについては、完全にその通りであり、謝罪するしかありません。
申し訳ありませんでした。


当事者として、多少思う事があるので、いくつかツイートしましたが、Twitterで書いてると、断片的になって誤解を生んでしまうので、ちゃんと文章としてまとめておきます。
意図とは違う受け止め方をしているかもしれませんが、ただ謝罪するだけで何も言わない事はむしろ不誠実だと思うので、自分なりに考えた結果を書いています。


私は、どういう内容を語ろうが、どういう表現方法を使おうが、人を不快にさせる時は不快にさせるし、傷つけることもあると思っています。
現実的に損害を被る事もあるかもしれません。
ただ、人が不快に感じるからというだけでは、発言を他の誰かが差し止めることはできない。そんな事やってると、誰も一言も喋れなくなります。
本来は、人は何をどういう口調で語ってもいいものです。


とは言え、表現内容によっては実際に辛い思いをし、不利益を被る人が居るわけで、「自由」が衝突している状態になることもあります。
上手くやるには、どちらかの「自由」を制限しなければならない。
表現内容によって損害を被る人が一定割合を越えた時、社会の要請によって構成員の代表である国家がそれを規制することもあります。
人は、それぞれが「自由」であり、人として尊重されるべき存在であるが、その多様性のためにお互いが上手くやっていけない事が沢山ある。
その中で、より多くの人が自由である世界を実現するために、共通の価値観に基いて自由が制限されていきます。


人はその多様性によって衝突するため、自分の立場を肯定する話は、それが何かを蔑ろにするものであっても、その事に気付かない事があると思います。
ある種のジョークもそういう要素を持ち合わせています。
難しいのは、自分自身の立場やその場に存在している価値観が、社会的な規範と常に一致するとは限らないことです。
人間のコミュニケーションが全て社会の規範に則った内容であるなんてことはありえないし、そうである必要もないと思います。
そういう意味で、全ての表現は社会の価値観にそぐわないものである可能性があり、場の状況と表現内容次第でどうにでも変化する問題なのだと思っています。


一方で、今日の社会において最も尊重されるべき考えというものがあります。その一つが性別に関わる事です。
そうなっているのは、過去に多くの問題があり、実際に多くの権利が奪われるまでに至ったものだからです。
だからこそ、最も重要なものとして考えなければならないものです。
とりわけ国際的な場で繊細に扱われるのは、文化や価値観の違いが色濃く出る側面があるからだと思います。
政治、法律が身近な国では、我々から見れば過剰とも言える程の配慮が求められています。
こういった権利を蔑ろにする表現は、あらゆる場で不適切とは限りませんが、公の場で許容する事を決して認めてはならないものです。
私は、それを破ってしまった。許容するべきでないのは当然の事だと思います。
敢えてそういった価値観に言及する事で、議論を進めたり、対象を絞ったジョークとする事も世の中にはあると思いますが、それには事前に状況をしっかり構築しておく必要があります。


一つ言っておきたいのは、表現の内容そのものが問題ではないということです。私はそう思っていません。
私が、自分自身で最も問題だったと思っているのは、内容そのものよりも誰の承認も得ずに実行した事です。
非常に卑怯であり、危険な行為だったと思います。
最悪、訴訟沙汰になる可能性もあるでしょう。
その場の判断で行われる事こそ、最も注意しなければならないことです。
人には娯楽を享受する権利もあるし、不快なものから目を背ける権利もある。
でも、それを完全に行う事はできない。
どうやっても世の中には自分の許しがたいものが存在して、それを見なきゃならない事がある。
自分が楽しみにしていたものが、ある日突然禁止されて弾圧の対象になる事がある。
お互いがそれぞれの立場を想像して、現実的な判断で交渉する事が必要です。
私は、そのための努力を欠いた行いをしました。
自分の世界だけが全てじゃないことを忘れ、傷付く必要の無い人を傷付けた事は恥ずべきことです。


本来、人は何を思ってもいいし、何を喋ってもいいはずです。
ただ、それが適切かどうかは、社会やその空間が決める事です。
極端な話、500年前の世界で人種差別的な発言や性差別的な発言をした所で、大した影響はなかっただろうと思います。そんな共通の概念も無かったしょう。
今迄の歴史の中で獲得してきたものによって、たまたま今日ではそうなっているという事です。
大事な事は、人は共同体の中で生きている事を忘れないでいることです。
共通の認識として存在する価値観をちゃんと知って、それを守って生きていくのが、この社会の構成員として成熟した一人であるということです。
私は、いただいた指摘をそう受け止めました。
発してくれた人が、そういう考えをしてるかは分かりませんが。


ポルノ云々の捉え方については、世の中には男性が消費される側にまわる事もあるわけで、実際にそれについて私が言及できるかっていうと、中々難しいと思う事もあります。
全体としてどっちが辛い思いをする事が多いかは言うまでもないことですが、最終的には多い少ないの話です。
ジェンダーに関わる事だからどうこう、ポルノに関わるからどうこう、ってわけではなくて、その他のマイノリティはどうなんだ、って事をちゃんと考えなきゃいけない。
女性の中にだって、そういう話題を語る権利も場所も存在するわけで、場が適切であるかないか、という問題です。
常にどちらか一方が弱者であるとは限らない。自分自身の今いる状況と関係無く評価される表現もありえない。
今までの人生で、一度もその場に居ないマイノリティの存在を貶める発言をした事無い人なんて、ほぼ居ないでしょう。
本当に常に一切言及する事が許されない話なんてものは、世の中にない。
最終的には状況が決める事、そういう意味で濃淡の問題なんだと私は思っています。
もちろん、誰もそこまで言ってるわけじゃないのは分かってます。


私が馬鹿だったのは、表現内容ではなくあの場でそれを行ったことです。
公の場で話してよい内容かどうかを自分勝手に判断した事です。
自分の知らない誰かの感情を真剣に考えなかったことです。他者との関わりを忘れたことです。
その結果として、対等の人間を排斥される弱者に貶めた事です。恥ずべきことだと思います。


長々と色々書いたのは、自分なりに真摯に受け止めて、色々考えてみた結果です。
考え方の相違を感じる点はありますが、全面的にご指摘いただいた方が正しいと思っていますし、敬意を持って受け止めています。


私は非常に愚かな子供だったと、改めて認識しました。反省しています。
多くの関係者の方にご迷惑をおかけしたかもしれないことについて、改めて謝罪いたします。
本当に申し訳ありませんでした。